ああ駄目だ俺。好きな女の子の前で負けそう。しかも人生初の。なんて無様なんだろう。彼女に(言いたくないけど、認めたくないけど)逆光仮面だってこともばれたくなかった。(恥ずかしい…)優等生のふりをして、裏で結構なやんちゃしてたってことも知られたくなかった。なのにコイツの所為で、ボンレスハムにして輸送されかねないコイツの所為で、俺の計画も、正体も、そして人生初の負けも、彼女の前に姿を現すんだ。なんてこったい。彼女に嫌われたら、(俺もう駄目かも。人間失格かも。人生諦めようそうしよう)


もうそこには諦めしかなかった。

 

 

 

「クレハくん…!!」

 

 

 

 

彼女の声が聞こえるまでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうしてだろう。目の前に広がる光景に、冷静に疑問が浮かんだ。


どうしてだろう。俺は今どうしてこんなにも冷静に物事を考えられるのだろう。

 

 

 


どうしてだろう。

 

 

 

 

目の前で、どうして、三國さんが、倒れているのだろう。

 

 

 

 


「みっ…くにさ…!?」


息のし辛い状況下で、ほとんど反射的にその名前を呼んだ。それでも三國さんは起き上がらなくて、ぴくりとも動かない。代わりにボンレスハム(以下確定)が地面に叩きつけられた身体をさすって起き上がった。(お前はお呼びじゃないんだ)


三國さんの元へ近づくと、遠巻きに見ていた茉奈さんやシンが走り寄ってきた。それでも三國さんは起き上がらない。膝を擦り剥いていて、腕とかもかすり傷が出来ているみたいだ。痛すぎてわからないのだろうか。(それと、も…)嫌な考えが思い浮かんで、まさか、と自嘲した。そんな程度で人間は壊れやしない。そうだ。三國さんは前も一度、こうやって捨て身タックルをしてきたじゃないか。あの時は幸運にも無傷だった。起き上がって、散らばった本を取りに行ったじゃないか。だから大丈夫なんだ、きっと。そう、大丈夫なんだ。

 

 

 


でもどこからそんな自信が湧くんだい?

 

 


ちりちりと焼けるような感覚が胸の奥底から湧き上がってきて、頭とか、手足とか、肩とか、目とか、いろんなところに伝染する。殴られたところが熱い。目も熱い。頭が、沸騰しているみたいに熱い。なんてバカな子なんだろう。

 

 

「チッ…そいつ馬鹿なんじゃねぇの!?」

 

 

でも、お前に三國さんをバカにする権利なんてどこにもないんだ。そうさ、三國さんはバカな子だよ。数学の問題が解けなくて、泣きそうになるバカな子なんだよ。ノートの落書きを見られて大慌てするバカな子なんだよ。男の喧嘩に飛び込んでくるようなバカな子なんだよ。でもお前に馬鹿にされるような馬鹿な子じゃないんだよ。馬鹿は馬鹿でも、可愛いバカなんだ。

 

 

 

 

「お前に」

 

 

 

 

湧き上がるような感覚。こんなこと今までなかった。頭に血が上っているんだ多分。でも意外にも冷静な自分がいる。冷静な自分が身体に命令する。あいつを倒せ。

 

あいつを倒せ。

 

 

 

「お前に…」

 

 

ボンレスハムに近寄り、襟元を掴んで立ち上がらせた。(首でも絞めればよかっただろうか…)それでも今の俺は、この拳を使いたかった。これでなければ、何も発散されない。握り締めた俺のこの手でなければ、俺の中のちりちりとした気持ちを伝えられない。それはとても身勝手だけれども、こいつに身勝手も何もあったものか。


風を切るように振り上げた拳が唸って、皮下脂肪たっぷりな頬を叩き落す。相手が痛みを痛感している間も与えないうちにもう一度、繰り返す。もう一度、繰り返す。何度も繰り返す。そうしているうちに相手が怯えを見せ始めた。ひぃ、なんて情けない声を出して、そういう時はボンレスハムらしくぴぎぃ、って言えよと心の中で突っ込みながら、もう一度、同じように殴った。こんなところを三國さんに見られたら、泣きながら、こいつが可哀想だよと言って、俺を止めるかもしれないな。そんなことを思考の片隅で考えながら、最後の一発が入った。ぐったりとなった野郎は、すでに出荷予定だ。

 

 

 

「お前に三國さんをバカにする権利なんてないんだよ…」

 

 

 

けほ、と咳をすると血が出た。気づくと口の中が何箇所か切れていて、鉄の味がじわじわと染み始めた。そして同時に右手の異様な熱さにも気がついた。見下ろすと、手の甲は赤くなっていて、少し、痛い。
ボンレスハムの後ろ、見物に来ていた取り巻きたちが騒ぎ始める。弱いコバンザメの集団は一睨みすると、慌ててボンレスハムの出荷をし始めた。きっとこいつらはこのまま消えていくのだろう。(また来ても、返り討ちに、するけど)

 

全身の力が抜けた気がした。これで終わったわけではない。胸のもやもやはあれを殴ったところで晴れるわけもなく、ただ虚しさだけがいやに質量を増した。胸の中はもう積載量をオーバーしている。それなのにまだ、終わってなどいないのだ。

 


俺の頭には血が上り始めていた。殴っている内は冷静だった思考回路もどんどん熱さを増して、もう冷静には物事を考えられないほどだった。振り返って、シンに横抱きにされている三國さんを見る。彼女は、目を開けていなかった。力の抜けた彼女の身体がぐったりとシンの腕の中にあった。痛む身体を引き摺りながらもいち早く彼女の元へと行こうと走った。

 


その間に考える事はたくさんあった。

 

 

 

 

 

打ち所が悪かったのか?


そもそもどうして男の喧嘩現場になんか口を出すんだ?


それさえなければ三國さんは笑っていた?


俺が逆光仮面とかそんな異名を持っていなかったら?


ていうか、三國さんと会っていなければ

 

 

 

 

 

 

こんな気持ちになることなんてなかったか?

 

 

 

 

 

 

後悔先立たずなんて便利な言葉があるけれど、憎たらしくて仕方ない。どうしようもない、馬鹿げた考えが頭の中を膨らませて、正常に考えるなんて出来ない。(ねえ、君なら、笑ってくれる?)


「三國、さ…ん」


三國さんを抱えるシンの隣、茉奈さんが涙目になって俺を睨む。ぐっと握り締めた両手はきっと俺が憎らしくて堪らないのだろう。シンが制止させる。そのシンさえも茉奈さんは睨みつけた。俺が悪い事なんて、周知の事実なわけだ。シンが三國さんを俺に差し出した。一瞬戸惑ってから、ゆっくりと手を伸ばした。彼女を抱きとめると、ぐんと重力が増した気がした。それに耐え切れずにその場でしゃがみ込んでしまう。なんて無様なんだろう。体中が痛い。そしてそれ以上に胸が痛い。


「大丈夫…気絶してる、だけだからさ」


シンの言葉に少し安心したけれど、そんな自分を叱った。

 

 

 

 

「三國さん…」

 

 

逆光仮面が俺で幻滅しただろうか。

 

 

三國さんが公園で突進してきた時から酷いことをした。自分が傷つくのが嫌だからって、三國さんを傷つけて、好きな女の子を傷つけてまで自分を守ろうとした。そんな俺の事を嫌いになっただろうか。そうだとしたら、なんて哀しいのだろう。それでも、君に馬鹿な俺に対する慈悲の心があるならば聞いて欲しいことがひとつあるんだ。聞くだけでいいから。(ねえ、聞いて。三國さん)

 

「…三國さん」

 

ゴメンね。俺、本当にバカだから、君のこと傷つけたよ。君の可愛いバカとは違って、本当にどうしようもない馬鹿だから、君を傷つけた。それでもまだ自分が大切なんだ。俺は馬鹿だよ。だからこんなこと言うんだ。許してくれるかな。許してくれなくてもいいよ。(身勝手でごめん)

 

 

 

「俺さ、三國さんのこと…好き、なんだ」

 

 

 

言葉にするのは簡単で、でも自分の気持ちはそんな言葉よりも大きくて、大きさを説明するにはまだ俺の言葉の数は少なくて、でも誰よりも一番に伝えたい。誰よりも、君が好きだってこと、一番好きだってことを、知って欲しいんだ。
ぽたりと溢れ出る水は俺から流れ落ちたのだと気づいた。それは三國さんの汚れてしまったブラウスに染み込んで、消える。でも気持ちは消えない。こんな風に染み込んで、しみになって、乾いて消えるものじゃない。

 

 

 

 

 

 

 

「好きなんだ」

 

 

 

 

 

 

 

どうか僕の浅はかさを許して下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…御前くん…」

腫れた頬にのびる白い手。
目を開けると三國さんの瞼がゆっくりと薄く開いた。
愛らしい微笑を携えて、瞼が開いていく。

 

「…クレハくん」

 

三國さんが目を開けて、微笑んでいた。優しい三國さんの目に俺の姿が映っている。涙腺が一気に緩んで、それを隠したくて、勢いで三國さんを抱き寄せた。彼女の柔らかくて甘い匂いが鼻をつんとさせた。


彼女のぼろぼろの腕が俺の頭を優しく撫でる。

 


「クレハくんのこと……守れなかったね」


三國さんの掠れた声。抱き締める腕を一層強くして、首を横に振る。


「ううん、そんなことない……ありがとう」

「守りたかったのに…」


微笑んだ君の言葉が嬉しくて、掠れた声で「ありがとう」としか言えなくなった。俺も君が守りたかったよ。でも守れなかった。だけど君は俺を守ってくれたんだよ。君があの時飛び出してこなかったら、俺は負けていたかもしれない。だから君は俺を守った。

 

 

とても大切で、大好きな君が俺を守ったんだ。

 

 

「…ありがとう、三國さん…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、三國さんは随分と怪我をしたので保健室へと茉奈さんに連行されていった。(そんな茉奈さんに一発殴られた)

俺は慣れていたので、後からシンとゆっくり保健室へ行くことにした。(とはいえちょっと痛い)

 

 

 

 

「バレちゃったな」

「…ああ、バレちゃったよ」

「……いいのか?」

「うん…もういいよ」

「……なあ、クレハ…もうひとついいか?」

「…ん?」

「お前さ…」

「?」

「あれ、は、いいの?」

「…は?」

「ほら、だからさ、あれ…だよ」

「……はっきり言えよ。殴るぞ」

「ヤメテクダサイ。………………好きって言っちゃったけど、いいのかなぁ?…って、思って…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そういえば勢いで言ってしまった。かあっと顔が熱くなる。
「あ。ごめん」と言ったシンをとりあえず一発殴った。でも顔の熱さは治まらない。

 

 

 

(あの時はもういろいろ一杯一杯で、どうしようもなかった俺。あ、ヤバイ、また泣きそう。泣いちゃう。泣いちゃうって、ホントもう、どんだけ俺を泣かせれば気が済むの!?や、ほんと、どうしよう!!)

 

 

 

熱くなる頬を手で覆って、まるで乙女のようだ。シンが後ろから追いかけてくる。とりあえずもう一発殴った。

 

 

 

 

(どうしようどうしよう!!ああもう………なんてこったい!