誰もいない教室は何となく好きだった。
ちょっと薄暗い感じが何とも言えなくて、少しだけ冷たい、無機質な机と椅子と黒板が黙っている。じっと黙って私の行動を監視しているみたいだった。意図的に溜息をついてみる。でも空気は変わらなくて、ただ監視の目だけを感じた。
誰もいない教室は好きだった。
誰に咎められる事もなく、彼の席をずっと見ていられるからだ。私の席の隣、皆から羨ましがられる特等席。私にとって特別な席でもある。彼の席に座る事だって出来る。誰にも咎められないから。
誰も座っていなかった彼の席はひんやりとしていた。
冷房のふきだし口が真上にあるから、冷たい風が直撃するのだ。(冷たい…)でも自分が座ると太ももの体温と同化して、わからなくなった。頬杖をついて、窓の外を眺める。部活をしている人や帰宅している人、いろんな人がいて、私がそれを上から眺めている。(神様は、こんなかな…?)
神様は私たちを見て、何を思っているのだろう。時折、そう考える事があった。愛しく感じているのだろうか。かわいいと思ってくれているだろうか。それとも愚かだと思っているのだろうか。(御前、くん)今の私はきっと愚かだと思われているだろう。
(御前、くん)
こんな風にひとりで涙を流しているのだから。
胸が痛い。胸が痛いよ。
この気持ちが一体何なのかは多分、わかっている。でも私はわからないふりをしていて、だからこんな風に痛くなるのかな。(痛くなるんだな)思い出せば思い出すほど、あの冷たい眼差しは怖くて哀しい。そしてやっぱり痛い。胸の奥がずきずきとしてしまう。(何でなんだろう?)
机に突っ伏した。ぼろぼろ零れる涙を拭いたくなくて、でも誰にも見られたくなくて。(神様にだって、見られたくない)クラスの子が来たらどうしようと思ったけれど、もう全てどうでもいい。(君に、見られなければ、いい)一番見られたくない人の机の上にぽたぽたと雫が落ちる。(君は、何て言う?)
滲む視界に映る君の顔が優しいのはどうしてだろう。
「ひより…?」
控えめに私を呼ぶ声がした。この声は茉奈ちゃんの声だ。凛としていて、聞いていて気持ちのいい声。リノリウムの床がきゅっと音をたてる。起き上がるふりをして、涙を拭った。顔を上げると何の感情も宿していないような茉奈ちゃんがいた。
「茉奈ちゃん、まだいたんだ。シンくんは?」
できるだけ平静を装って、いつも通りの対応を取ろうとする。(できてる、かな)まだ目は潤むけれど、これは眠たいってことにしよう。
茉奈ちゃんの目と目があった。その目は私をちゃんと見ていた。何もかもを見透かされそうな目。茉奈ちゃんは時々そういう目をする。レントゲンでも取られているような、そんな目。中身を知られたくなくて、目を逸らさずにいると茉奈ちゃんの形の良い唇が開いた。
「帰ろう」
「うん」
茉奈ちゃんの誘いに二つ返事で頷くと、漸く茉奈ちゃんが笑ってくれた。レントゲンは終了だ。結果は出たのだろうか。
でも茉奈ちゃんはそこからは全然別の話をし始めた。
今日の授業での面白い話とか、昼休みに見つけた野良猫の話とか、本当に全く関係のないことばかりが茉奈ちゃんの口からは出てきた。だから私は普通に話せた。何も気を使う事もなく、いつも通りの対応が今度は完璧に出来た。
「ひより」
家に入ろうとしたら、茉奈ちゃんに呼び止められた。振り返ると、ぎゅっと鞄を握り締めた茉奈ちゃんが真っ直ぐに私を見ていた。沈んでいくオレンジ色の夕日に照らされて、茉奈ちゃんの顔もオレンジ色に染まっていた。
(茉奈ちゃんの、色だ…)
茉奈ちゃんはオレンジ色が好きだった。女の子らしい子だから、初めはピンクが好きなのかなと思っていたら、オレンジが好きと言った。温かいから好きなのよ、と言っていた。だから茉奈ちゃんの身の回りのものはオレンジ色が多かった。そして茉奈ちゃん自身もオレンジ色だった。茉奈ちゃんがオレンジ色に染まる。(ああ、茉奈ちゃんだ)
「いつでも、来ていいんだよ」
茉奈ちゃんから発せられた言葉に涙腺が反応する。(ああ、茉奈ちゃんだ)それだけ言うと茉奈ちゃんはにっこり微笑んで、バイバイと手を振った。私はうん、と言って手を振った。それから茉奈ちゃんの後ろ姿を小さくなるまで眺めた。茉奈ちゃんのぴんと背筋を伸ばした綺麗な背中。凛としているのに彼女はとても温かかった。私の大好きな、大好きなお友達だ。そして私を大好きでいてくれる親友。
(ああ、茉奈ちゃんなんだ)
オレンジ色に包まれた彼女の言葉が、ぽたりと雫を垂らさせた。
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