シンくんは心配してくれた。一人で大丈夫なのか、と。私は大丈夫と答えて、彼を帰そうとした。大丈夫だよ、と言って笑うとシンくんは大概納得してくれる。
「…みっちゃんの時も、こんなだったね」
何気なく思い出し、口に出す。あの時もこんな風に泣いた私をシンくんが何も言わずに頭を撫でてくれた。それから一緒にお墓を作った。私はあの時も大丈夫と言って笑っていた。(懐かしい、昨日の事みたい)出来事自体は悲しかったけれど、私はそれをしっかりと覚えている。
「お前、あん時もそうやって笑ったよな」
一瞬どきりとする。心の中を読まれたような気がした。けれどシンくんはそれ以上突っ込んだ話はしない。じゃあ、と言って背を見せる彼に心から感謝した。
本当に彼は、優しい人だ。
次の日、私は普通に学校へと行った。行く前に玄関の姿見でにっこりと笑顔を作ってみた。(問題なし!)昨日の涙は昨日の内に蒸発したみたいだ。
学校に行くと私は不意に自分の席の向こう側、窓際の特等席に目がいった。今日は来るだろうか。眉間に皺が寄って、眉が自然と八の字になるのがわかる。その時からすでに私はそわそわしていた。主の来ていない隣の席は朝日を反射して、白く光る。机に置いた鞄の中から顔を見せる本と目が合った。気分は更に落ち着かなくなる。
謝らなくてはならない。それは昨日のことだ。昨日、不可抗力とはいえ彼から借りた本をぞんざいに扱ってしまったのだ。大きな傷が無かったとはいえ、謝らなくてはいけない。もしかすると私が気づかなかった傷に彼が気づいて、私を責めるかもしれないのだ。(ああ、ごめんなさい)私は心の中で何度も謝罪の言葉を繰り返した。本鈴が近づくにつれ、教室のざわめきは大きくなっていく。シンくんも遅刻寸前で教室に飛び入ってきた。けれど、お隣の御前くんは本鈴が鳴っても姿を現さなかった。
朝礼中にも彼は来なかった。授業前の休み時間になって、私は彼が来ない事をとても心配した。(風邪?)用も無いのに廊下に出てみたりしたけれど、なかなか彼は来なかった。諦めて席に座ると先生が入ってきた。(今日も、お休みか…)私はほっとしたような、それでいて残念な気分になった。教室のざわつきは消えない。チャイムはまだ鳴らない。扉が開く音がする。私はノートを見ていた。
視界の端に見覚えのある影が映り込む。私は咄嗟に左を向いた。(…!)
御前くんが、いた。(いつの間に…!)私は驚いて、声をかけるタイミングを失って、左を向くのか、前を向くのか、中途半端な態勢で固まってしまった。(声、かけな、きゃ!)御前くんは静かに着席をする。「み、さきくん!」激しく脈打つ心臓を抑えて、声を振り絞る。騒音の中で私の声はかき消されそうになったけれど、御前くんは私の声を聞き取ってくれた。御前くんの視線が動く。
だけどその目は私の激しく脈打つ心臓を一瞬で止めた。
彼の何も映していない眼が心臓を貫く。
「なに」
ぐさりと冷たい刃が突き刺さる。メガネの奥の瞳は光すら宿していないようで、私はその中に吸い込まれそうになった。まるでブラックホールのようだ。そこには何も存在していない。血の気が引いていく。頭から下へと、血液が落ちていく。土に水が染み込むように、そのまま私の血液全部が地面に吸い込まれそうだ。
困惑して、口篭もる。御前くんの視線が痛い。
(でもその視線はどこも見ていないようでもあった)
「用が無いなら呼ばないで」
そう言い放つ御前くんはそのまま机に突っ伏した。私はというと何が何だかわからなくなっていた。耳鳴りがしている。周囲のざわつきも、授業開始のチャイムも、もの凄く遠くで聞こえている気がする。動揺とも、怒りとも取れない感情が掻き混ぜられて、頭がガンガンした。
どうしてだろう。私が何かしてしまったのかな。御前くんの気に障るような事をしてしまったのかな。でも昨日御前くんは休んでいたから、それよりも前かな。私がなかなか数学を理解しないから呆れたのかな。だとしたら私もっと頑張らなくちゃ。あ、でも、もう御前くんに嫌われちゃった、んだよね。それとも今日は機嫌が悪いのかな。私なんかが声をかけたから、いけなかったのかな。
泣きそうになった。昨日から泣いてばかりだ。でも今は授業中で、泣いたら多分御前くんに鬱陶しがられる。御前くんの機嫌が更に悪くなるかもしれない。私は涙をぐっとこらえて機械みたいに板書を写した。左隣の彼の存在をひしひしと感じながら、私は授業にのめり込むふりをした。
それからというもの、御前くんは一向に顔を上げなかった。私は休み時間の妙な静寂に耐え切れず、何度も廊下に出た。教室は全体的に騒がしいのに、私と彼の間だけひんやりとした沈黙が流れる。沈黙は私に重く圧し掛かり、気分を悪くした。(今日だけ、今日だけでありますように)私は神様に祈った。神様を信じる信じないとかそんなこと今はどうでもよくて、ただ私が犯してしまった罪がわからなくて、どうしていいかわからない。(謝ればいいんだよ)まるで神様のお告げみたいに、そんな考えが浮かんだ。元より謝ろうとしていたのだ。なら、そのことも踏まえて謝ればいいのだ。何が悪いかわからない時は聞けばいいと思う。御前くんが気分を害してしまうのは嫌だけれど、何もしないよりはマシだと思う。私は早速実行に移そうとした。
御前くんは昼休みになるとようやく顔を上げた。そしてそのまま教室を出て行く。お弁当を食べていた私は慌てて、口を動かしたまま、借りた本を手に彼を追いかけた。(咽喉がつまりそう、だ)またもや心臓が激しく脈打つ。頭の中で何度も台詞を繰り返してみた。(ごめんなさい。上手くいえないけれど…)ちゃんと言えるかとても不安だけれど、そこは多分大丈夫だ。御前くんは歩くのが早くてなかなか追いつけなかった。私は小走りになって、彼を必死で追いかけた。
「御前、くん!」
彼を呼ぶ。なんとか距離を縮めたものの、このままではなかなか追いつけそうになかったのだ。御前くんが立ち止まって、振り返る。私はそこまで走った。その間も彼の表情は朝と変わらなかった。脈打つ心臓が痛い。もう一度、頭の中で謝罪の言葉を繰り返す。息を整えてから口を開いた。(ごめん、なさい)
「あの、」
「もうかまわないで」
紡ごうとした言葉が一瞬で遮られる。もの凄い衝撃を感じた。頭の中が真っ白になって、何も言えなくなって、御前くんは背を向けてそのまま歩いていった。耳元で大きな鐘が鳴っているみたいだ。私は何が何だかわからなくなった。(なんて、言った?)思い出そうとして、思い出すのをやめたくなる。彼の冷たい目を思い出し、彼の冷たい言葉が勝手に流れる。(ああ、なんだ、これ)
「クレハっ!!」誰かの声がした。(シ、ンくん…)シンくんが突如現れて、そして御前くんを追いかける。私も彼を追いかけたかったけれど、追いかけて文句の一つでも言いたかったけれど、私は何も言えない。何も言えないどころか、足が全く動かない。
混乱する頭は泣くという単純な動作だけして停止した。
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