「嘘をついてもいいけれど傷つけないでくれと昔、言われたことがある」
梅雨になると思い出す。あの女の顔を。
あの女はこんな雨の日にひっそりとそう呟いた。
「それはどんな間柄の方に言われたのですか?」
「親しい仲の女性に、だよ」
雨の音は好きであり、嫌いであった。
おそらくそれはあの女に関係しているのだろう。
あの雨の日、今日みたいな梅雨の時期、彼女の言葉が終わりへの始まりだったのかもしれない。
真理子ちゃんは俺のあいまいな言葉だけで何かを察したようだ。小さな頭の中で、全感情を引っ張り出して、俺に答えようとしてくれている。
真理子ちゃんはどことなく、あの女に似ていた。
あの女から毒を抜いたら、きっと真理子ちゃんのようになっていたことだろう。
だが、俺は彼女の毒を上手く抜くことができなかった。否、彼女は俺になど救いは求めていなかったのだ。今ならそれが明確にわかる。
「簡単に言うと、“バレない嘘をついてくれ”ということじゃないでしょうか?」
「バレない嘘?」
「どんな秘密をつくってもいいけれど、それが相手に知れてしまえば秘密は“嘘”になる」
雨の音が空間を閉鎖する。
「つまりそれは信じてもらえていなかったのかな…」
自身でも驚くほど弱気な声が出た。あの女に対して未練はなかったはずだ。なのに胸が痛む。あの女を振ったのは自分だった。彼女の横暴な態度にほとほと疲れてしまったのだ。だから好きだったが手放した。好きだったけれど、手放してしまった。あいつは俺の生気を吸って、生きていたのかもしれない。
弱気な声の所為か、真理子ちゃんが目の前であたふたとしていた。上手くフォローしようと言葉を検索している。その姿には自然と笑みがこぼれた。
「ごめんね、真理子ちゃん」
「でも…ごめんなさい。私、余計なことを言って」
「昔の話だよ。それに聞いたのは僕だ」
真理子ちゃんは半信半疑でいるのだろう。
申し訳なさそうな顔でこちらの真意を探っている。口に出したことすべてが真相だというのに。
真理子ちゃんは見なくていいところまで見えてしまう子なのだろう。きっと、俺自身が気づいていないだけで、彼女には見えているものがあるのだろう。
雨の音が妙にすがすがしく聞こえた。
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