バケツを引っくり返したかのような雨に私は身を任せていた。
傘を忘れた訳ではない。傘ならちゃんと右手に持っている。ただ差す必要が無いだけなのだ。傘以外に荷物を持っていなかったのは幸いだろう。
私はこうなることを何となくわかっていたから、「出掛ける」と言いながら何も持たずに家を出たのだ。一応、傘だけは持って、怪しまれないように出掛けたあの時が何故だか恨めしい。今帰れば、親はきっといないだろう。今朝方、出掛けると言っていた気がする。それがどこだったか、聞かされたような気もするが、いちいち覚えてなどいない。今帰れば、誰も何も言わない。いないのだから言えない。
しかし、私は帰る事を拒みながら家路に着いた。別に家に帰るつもりは無い。ただある範囲内から私は出られないでいるのだ。昔からそうだった。
“コウクナイ”と言われている危険ではない範囲をきちんと守り、他の友人に誘われたとしても、その範囲内からは絶対に出なかった。その習慣が未だに抜けきらず、私の中で密かに根を張っているのだ。
とりあえず、決心が着くまで家の周りをうろつこうと思った。些か不思議な光景でもあろうが、今の私にはそんな事を気にしているほどの余裕はない。今はただ、自暴自棄になるかのように降り続ける雨と戯れる事しか頭にはなかった。幸い、そこには人気はない。どこの家も窓を閉め切って、屋内で楽しめる何かに没頭している。誰も私がこんな風に濡れている事になど気付きもしない。私だって気付かれたくなど無い。どっちにしろ同じ気持ちなのだ。家はすぐそこだ。それまでに人に出会う確立はほぼ無いだろう。
私はどことなく高をくくっていた。
でも、その予言にも近い推測は呆気なく打ち破られる事となってしまった。
前方に見覚えのある人影。
私の持っている傘よりも少し大きめの男性物の傘を差している。それは深い緑色で、見事に雨の景色の中で絶妙な絵を醸し出していた。
ぴたりと足を止める。
その瞬間に金縛りにあったかのように、動けなくなってしまった。頭で危険信号がチカチカと光っている。何故そんなものを光らせなくてはいけないのか、私には自身の事であっても理解できない。
ただ逃げなくてはいけない事だけはきちんと理解していた。
でもその理由は知らない。わからないのだ。
視線の先の人物は直立不動でこちらをただ見据えていた。
その見えない目には怒りのような色が窺えた。
逃げろ、私は私に指令を下す。
それでも私は動かない。
これこそが蛇に睨まれた蛙と言うのだろうか、と思考の片隅で感心していた。
相手は一向に動かなかった。
多分、わかっていたのだろう。
少しでも動けば私が方向転換をして逃げてしまう事を。
長い沈黙がその場を凍結させた。
その間にもブラウスは濡れ、地肌をその薄い生地に浮かび上がらせる。
普段、自由に空中を浮く髪は大人しく張り付いて、休息を保っていた。
どちらも何も起こさない。でも相手は確かに怒っていた。今にも走って来そうなほどに怒っていた。瞬間移動しそうな勢いでもあった。私は怯え、その怒りをぶつけられる事を恐れた。でも、もう仕方が無い事だ。私は諦める決意をした。
怒りをぶつけられてもいい。悪いのは私なのだ。自分の身を案じない私が悪いのだ。
おずおずと一歩、また一歩と前に進み始める。
最初は少し抵抗感があったが、徐々にそれは速さを伴った。
早く相手のところに辿り着かなければ、怒りは更に増す事になるだろう。
勝手な妄想から私の推測は生まれた。
だけどそれは一概に間違っているとは言い切れないことだった。
相手は依然として動かなかった。
直立不動で傘を差し、怒りの視線を私に投げかける。
きっと彼の中で、彼の横を通り過ぎるという選択肢はないだろう。
私は覚悟を持って、彼の前へと進み出た。彼の視線が先程より下へと向く。確かにその目には怒りのようなものが見えていた。彼は濡れた私の腕を引っ張って、煉瓦造りの屋敷へと連行した。掴まれた腕は少しだけ圧迫感を感じていた。そこにもまた、相手の怒りが垣間見えた。何故だか、とても申し訳の無い気持ちが私の中で芽生えてきた。
通されたのは見慣れたリビング・ルーム。童謡に出てきそうな大きな古時計が夕刻を指し示している。ああ、もうそんな時間だったのか、と私は雨に濡れていた時間を思い返した。
腕の圧迫感がなくなったかと思うと、背中に柔らかく、それでも酷い衝撃を感じた。黒い皮製のソファに放り投げられたのだ。彼の行動は全て荒々しかった。
私をソファに放り投げ、座らせると、そのままの勢いでリビングから出て行き、どこか別の場所へと消えていった。その間、彼は変わる事無く、怒りを見せていた。
それは目の輝き方でもあったし、行動の荒々しさでもあった。そして何より、彼の周りの空気だけが、あの雨のじとじとと身体に張り付くかのような湿り気を持たずに、もっと重たく、そして痛々しい攻撃的なものであった。
彼がまた戻ってきた。先ほどと同じく、荒々しいままの歩調で私に近づく。
手には淡い色をした柔らかそうなタオルを持っていた。広げると私一人を包み込んでしまうほどの大きさのそれを私にかぶせる。そして荒々しいまま、私を揉みくちゃにした。タオルから伝わってくる彼の手の温かみとタオルの上から感じる彼の怒りに身を任せながら、私は沈黙を泳いだ。
見えなくとも、彼の口は固く結ばれている事だろう。
目はいつもと違い、温かみではなく、熱さを伴っている。
穏やかな雰囲気は全く見せずに手荒に水気を拭き取る彼。
「何をしていたの」
彼はやっとの思いで口を開いた。
それは相手を傷つけるつもりは無くとも、攻撃的で私にはとても痛かった。
そして同時に恐ろしさのあまり、口を開く事が出来なかった。
沈黙を守ってしまおうかと考えていると、彼がまた同じような口調で、同じ言葉を私の頭上に投げかけた。更に恐怖は増す。私は口を開かなくてはこのまま地獄の火にでも焼かれてしまうのではないだろうかと思ってしまった。
「別に、何も」
彼の威圧感に怯えながら口を開くと、その声は途切れ途切れになってしまった。彼の怒りはそれでも形を変えない。彼はそんなことを聞いている訳じゃないことがわかった。
「じゃあどうしてこんなにも濡れているの」
彼の口調は質問をしているとは思えないほどに威圧的だった。
それはまるで拷問のようでもあったし、攻撃のようでもあった。
彼の手が止まる。
時間がまた凍結してしまった。
大きな古時計の脈打つ音が酷く耳に響いた。
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